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2004/02/29 「グレン・グールド著作集1」:芸術


  良く知られているように、グールドは31歳(彼の名声は継続的な絶頂状態だった)で舞台演奏から退いた。
  理由については色々なことが言われているが、「舞台演奏ではミスや雑音などの要因が排除できず、最高の音
を届けられないからだ。レコードなら、満足いく演奏ができるまで何度でも繰り返し挑戦できる」などとも言っ
ている。
  そんな彼の著作集を読んだ。なかなか示唆的な言葉に溢れていて面白かったので紹介したい。
  全体的な印象としては、音楽の専門的な考察が続くところについては(私の知識が全く追いついていないので)
理解し難い部分も多いが、音楽に対する彼の取り組み方や、彼の音楽を受け取る仕方はかなり面白く感じられた。
グールドの意図はともかくとして、それは芸術一般の理解に、あるいは世界の理解の仕方にとっても、一つの方
法を提示しているように見える。


  われわれが「独創性」というような言葉を使うとき、その用法にわれわれの歴史観はどのように影響してきた
のだろうか。
  グールドは芸術の理解について考える。
  「歴史の展開をクライマックスの連続という見方で捉え、芸術家の評価にあたってもその時代のクライマック
スにどのように参加したか、あるいはもっといいのは、そのクライマックスをどのように予測していたかによっ
て決定する」というのが、世にありふれた考え方だ。
  このような「進歩主義」に対して、グールドは以下のように反駁する(というより、コケにする)。
  1.あるハイドン風の演奏を、うまくハイドン(1732-1809)の未発表曲だと思わせることができれば、その
      演奏はハイドンの名声に釣り合った価値が与えられるだろう。
  2.または、その演奏をメンデルスゾーン(1809-1847)の作品だと告げたとすれば、その演奏は「一昔前の
      スタイルを良くこなしているものに過ぎない」として、ほとんど価値が与えられないだろう。
  3.または、その演奏をヴィヴァルディ(1678-1741)の新発見の楽譜によるものだと告げれば、それはこの
      巨匠の先見の明を証明する傑作として評価されるだろう。
  このように、芸術の評価とは「芸術品そのものの価値」といったものについてあるのではなく、歴史に規定さ
れがちなものだ。「歴史に規定される」というのは曖昧な言い方だが、グールドも「感受性というものはそのよ
うに形成されるものだ」という意味のことを書いていて、そうなってくるとこれはもうベンヤミンそのものだ。
  メディアが感覚を変容させるということ。その逆ではなく。
  実際にもグールドがマクルーハンに言及している個所などがあり、彼として芸術の受容については真剣に考え
ていた様子がその文章に滲み出ている。

  諸君がすでに学ばれたことやこれから学ばれることのあらゆる要素は、ネガティヴの存在、ありはしないもの、
ありはしないように見えるものと関わり合っているから存在可能なのであり、諸君はそのことを意識しつづけな
ければならないのです。
  メジャー(長調)の音楽では明るいイメージを抱き、マイナー(短調)の音楽では暗いイメージを抱いてしま
う。そのように教育されてきた私たちに対して、その価値を否定するのではなく、しかし、常に「それ以外」へ
想像を働かせることの価値を、グールドは指摘する。
  「ネガティブの広大な後景」は、その「理解不能なもの」という定義からして理解不能だ。しかし、私たちは
私たちにできる「ポジティブな前景」への考察を、「理解不能なもの」への考察へ、振り向けていかなければな
らない。想像力の価値は、理解可能なものを補うためにあるのではなくて、理解不可能なものへと近付くことに
ある。
  グールドのピアノを聴くとき、彼がその音楽を通してどんな境界線の向こう側を想像していたのか、それを想
像してみよう。それはきっとグールドの境界線よりも、私たち自身にとって最も切実な「境界線」を考えさせる
ものであるはずだ。そしてそれをもって、「グールドの音楽の理解」と呼ぶことは、決して間違いではない。


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